ハキダメ

ダメ人間の妄想の掃き溜め

その先へ(TEXT)

※死にネタのパラレルです。ご注意ください。



 ベッドから起き上がり、カーテンの隙間から外をのぞいて、一口コンロに火をつける。食べることは生きることだから角都は食事をおろそかにしない。野菜と肉を炒め、雑穀と水を加えて煮立たせた簡単なスープを鍋ごと卓袱台に運び、まだ熱いそれを匙でつつきながら新聞を読んでいると、真向かいに胡坐をかいている男が話しかけてきた。
 またそのメシか、よく飽きねえなあ。
 バランスが取れて体に良くしかも経済的だ。
 たまには味ぐらい変えたらどうよ、チーズ入れるとかカレー入れるとかあんだろ。
 角都は新聞をめくった。天気予報の欄を見る。このところずっと雨が降らず異常乾燥注意報が発令されている。快晴はまだ数日は続きそうだった。角都はゆっくりと咀嚼し、最後は鍋の中を匙でさらってきれいにした。
 お前はさぞ脂っこくて味の濃いものばかり食っていたんだろう。
 少なくともオメーよりは食ってたぜ、若かったからな。
 何がおかしいのかゲハハと笑った男は、うるさい黙らんと殺すぞ、と言われて更に声を上げて笑い、それをオレに言うかよ角都、と返した。男の名は飛段。角都に殺されたときには二十二歳だった。

 生まれてこのかた定住したことがなかった角都だが、さすがにここしばらくは仕事を依頼されることもなくなり、そうすると動くことも億劫になって、たまたま身を寄せていた木賃宿にそのまま居ついている。特に不自由はない。殺し屋は安定した商売ではないが、数をこなし、きちんと報酬を管理していた角都には充分な蓄えがあった。
 ひとところにとどまって半年ほど経ったときのことだ。外出から戻ってきた角都は、自室の鍵を開けているときに背後から声をかけられ、ぎくりとした。老いた今、確かに以前のような動きはできないが感覚の鋭さは衰えていないと思っていた、その自分が背後を取られるとは。振り向いた先にはチンピラ風の若者がおり、いかにも軽薄そうにズボンのポケットに手を突っこんだまま、ヨオ、と言った。
 オレ飛段。あんた角都だよな。
 誰だ貴様。
 飛段だって言ったろ。オレのこと覚えてるはずだぜ、角都ちゃんよォ。
 慣れ慣れしく呼ぶな、貴様など知らん。
 いやいや知ってるんだってェ、それよかでかい声出さねえ方がいいぜ、ひとが見るだろうが。
 ちょうど廊下に出てきた隣の部屋の住人が怪訝そうな目を自分に向けていることに気づいた角都は、若者を睨んで威嚇すると、自室に入って扉を施錠した。そうして電気をつけたら四畳半の部屋のまん中に件の若者が突っ立っていたのだった。
 角都の右手は反射的に動いた。小さいが重みのある刃物は薄い壁に柄まで刺さって止まり、若者の首をめがけて繰り出された角都の手刀も空を切る。肩透かしにあった角都はもう一度拳を振るうが、手は空気を掻くように再び若者の体を通り抜ける。攻撃の軌道上にいた若者が無傷のままニヤニヤと自分を見返すのを見て角都は思い当る。この顔は見たことがある。最後に請けた仕事で角都はターゲットを狙い損ね、一人余分に殺していた。とばっちりを食ったのは髪を後ろに撫でつけた軽薄そうな男だった。これはあれにそっくりだ。
 思い出したってツラだな、オイ、と若者は満足そうに言い、畳に胡坐をかいて角都を見上げた。
 テメーにオレは殺せねえ、一回殺しちゃってるからな、二回目はナシだ。
 何しに来た。
 それがよ、行くとこがねえんだ、しばらくここにいさせろや。
 あの世に行けばいいだろう。
 行けるなら行ってるさ、けどあの世の場所がわからねえし聞く相手もいねえ、どうもオレのこと知ってる奴じゃないとオレ見えないみてえで、けど組の奴らは解散してどっか行っちまったし、オレ他にダチとかいねえし、退屈で退屈でまた死ぬかと思ったぜ、今日やっとテメーを見つけてよォ、大体テメーがオレを殺したんだから責任あるだろ。
 俺が死んだら道案内をしろとでも言うつもりか。
 あたりー。テメーけっこうなジジイなんだろ、ならそう遠いことじゃねえだろうし。
 死んでわかったけどオレみてえな奴うじゃうじゃいるぜ、テメーにゃ見えねえだろうがよ、と男に言われた角都は、昔、同業者の姿をその死後に見かけたときのことを思い出し、曖昧に納得した。成仏できない死者もあるのだろうと。
 貴様、俺を恨まないのか。
 最初はひでえって思ったぜ、いきなりだったしよォ、けど考えてみりゃオレも似たようなことしてきたし長生きなんかしたくもねえ、それにテメーあの後花束を置きに来たろう、二つ並べて、一つはボスの分だろうがもう一つはオレのかなって思ったら、そう悪い死に方でもねえかって気がしてよ。
 触れることができない以上この男を強制的に排除する手だてがない。角都は確認すべきところは確認した。死者は飲み食いせず、排泄もせず、布団もいらないと言った。金がかからないのなら好きにしろ、と角都は言った、それ以来、殺した者と殺された者の同居が始まったのだった。

 第一線を退いたとはいえ角都は殺し屋であり、妙な癖をいくつも持っていた。カーテンを開け放した窓辺には立たず、他人とほとんど口もきかず、同じ所へ行くにしてもルートをさまざまに変えて悪ふざけのような遠回りをすることもあった。飛段が生活に入り込んだせいで、その癖はさらに不可解さを増した。木賃宿の客たちは陰でひそひそと噂をした。あの男、とうとうきたかね。前はえらく静かだったくせに最近は部屋からよく独り言が聞こえるぞ。この間も一人で廊下に立ってブツブツ言っていたな。九十一だというから無理もなかろう。
 鋭い耳はそれらの風評をちゃんととらえた。角都は憤慨したが否定するのも阿呆らしく、放っておいたところ、ある日突然介護サービスの関係者が角都の部屋を訪れていろいろと質問し、やんわりと福祉施設への入所を勧めてきた。誰かが角都の身か、それとも痴呆者と同棟に住む自分の身を案じたのだろう。無愛想に客を追い返した角都は数日間思案した末、今やそこにいることが普通になってしまった幽霊にあることを問うてみた。
 くに?オレの生まれたとこってこと?そんなの聞いてどうすんだよ。
 俺には故郷がない。こんな稼業だと知り合いに会うのも物騒だし煩わしいが、まったく知らん土地に行くのも面倒だ、お前のくにならお前に土地勘があるだろう。
 飛段は足の爪を切る角都の右隣に座り、ううーん、と唸って足を新聞紙の上に投げ出した。実体のない相手に向かって、爪が散るだろう、と角都はつい注意をしてしまう。
 あんまり気が進まねえなあ、オレあそこでムチャクチャやってたから。知り合いもけっこういるし。角都どっか行きてえの?ならあそこに行こうぜ、こないだテレビで見たじゃん、オメーも行ったことあるって言ってた、あそこ、海の近くの、ほらなんつったっけか。

 飛段が口にした、いっとき怪談めいた噂でもてはやされた海辺の町の名を角都は覚えていた。もともとさびれた寒村だったその地で角都は半月ほど過ごしたことがあったが、ぶっきらぼうな方言と厳しい冬の景色が好ましいものとして記憶に残っている。角都はしばらく町の名を反芻していたが、翌朝起きだすと小さな荷をつくり、訝しがる飛段に向かって今日ここを発つと告げた。唐突な出立を驚く飛段をよそにいつものスープをつくり、茶を入れる。
 行くのはいいけどずいぶん急じゃねえか。
 角都は、茶柱も立ったしな、とだけ答えた。自分の衝動についてうまく説明できなかったからである。多分ひとところに長くいすぎたのだろう、行先はどこでもいいから旅に出たかった。飛段は角都の茶碗を覗いて顔をしかめた。
 茶柱なんてねーぜ。
 そんなことより貴様、布団は不要だと言ったくせに最近俺の隣で寝ているだろう。
 や、だってやっぱり布団があれば寝るだろそこに。別に迷惑かけてねーじゃん、テメーほんとケチだよな。
 角都は鍋と茶碗を洗い、商売道具と当座の金を荷に加え、中がほどよくいっぱいになったアタッシュケースを持って飛段と共に宿を出た。未練はなかった。残された家財道具は誰かが使うだろう。
 最寄駅までのくねった坂道を歩いていく。いかにもチンピラらしい服装の飛段は角都の右側を歩く。死んだときの服装は替えられないらしく、いつも飛段はだらしなく開いた黒シャツの襟元から銀色のネックレスを覗かせ、股上の浅い安っぽい黒ジーンズを穿いていた。死ぬ時には着るものにも気を使わんとな、と角都は口を歪めて考えた。
 こんなにも自分にははっきりと見える飛段の姿が他人には見えない、というのは何とも奇妙なことだった。湾曲した道に立つカーブミラーを、角都は歩きながら覗いた。その中に飛段の姿は映っていたが、向かってくる車は見えなかった。土手の陰からいきなり現れた車を前にして、角都がとっさに動けなかったのはそのせいだ。あのとき既に自分は境界を越えていたのかもしれないと後に角都は考える。

 ボンネットの上にはねあげられた体は車の屋根を越え、カーブミラーとその背後の擁壁に叩きつけられた。強い衝撃は焼かれるような激痛を角都に与え、すぐに感覚を奪った。あたりが静かになってから、角都はゆっくりと身を起こした。車は見当たらない。逃げたらしい。ガードレールには腹を横に折り曲げた男の体が引っかかっている。馴染みの黒コートを着た人体の頭は砕けており、盛大に血が流れ出している。開いたケースから紙幣が飛ぶ。それをとっさに押さえようとして、角都は自分に実体がないことを知った。自分は死んだのだ。再び黒コートの人体に目をやった角都は、その目を誰かの手で覆われて動きを止める。
 あんま見るな、気持ちのいいもんじゃねえ。
 俺は殺し屋だぞ。
 いいから黙れよ角都。
 そのまま飛段に頭を抱かれた角都は、現場を離れたところまで引かれるままに腰を曲げて歩いた。足元がふわつくが、解放された視界に映る世界はまったくいつも通りだ。あまりに普通なので角都は変化を実感できない。自分の体を見下ろしても、見慣れた服とアタッシュケースには特に汚れもない。
 こんなもんか。
 ああ。
 口から漏れた独り言に思いがけず返答があったので、角都は隣を振り向いた。赤い鼻を拭いている飛段はまるで生きている者のように見える。伸ばした手に触れる髪も。これが死か、と角都は考える。まるでそっくりな地図が二枚重なっているようだ。生者はその一枚に住み、死者はもう一枚に住む。
 あの世への道が示されないところをみると、角都もまた成仏を許されない一人なのだろう。しかし死によって角都はリアルな相棒を手に入れたらしかった。自分の死を悼んでくれる本物の相棒など望んでも得られるものではない。
 行くぞ、と角都は言って相棒の手を引いた。こんなときにどこへ行くんだよう、と相手が情けない声を上げるが角都は足を止めない。駅はもうすぐだ。そして世界は生者にも死者にも等しく広い。