ハキダメ

ダメ人間の妄想の掃き溜め

独語・スケ3(trash)

明日は夏のイベントなんですね。隠れヲタの当方にとっては雲の上のごとく遠い世界です。猛暑が続くようですから、皆さまお気をつけてお出かけを。


<スケッチ 3>


 ほんの三十分電車に乗るだけで気候がこんなに違うとは驚きだ。飛段の活動範囲はアパートと仕事場が中心で、遊ぶときには繁華街へ行く。この時期はどこもうだるように蒸し暑く、冷房の中で暮らすことが当然だったのだが、今日訪ねた海沿いの地域ではさわやかな風が吹いており、それを計算して作られた家屋の中はさらに涼しく、裸でいると寒いほどだった。潮風だから車がすぐにいたんでしまうと家の主は言ったが、事務的な口調だったので、それを嘆いていないことはすぐに知れた。
 ここの家主は先日のデッサン会で知り合った男で、名を角都といった。画材店でアルバイトをしている飛段は以前この男を見たことがある。ある客が開封済みの商品をレジに持ってきて苦情を申し立てた。ピグメントがうまく溶けなかったと言う。多分溶剤の扱いが悪かったのだろうが、客はかなり激昂しており、レジ係がへどもどしているところに角都が介入したのだった。陳列棚の前にいた飛段にやり取りは聞こえなかったが、口角から耳にかけて傷跡がある角都の横顔が見えた。やくざだな、と飛段は思った。苦情の客は出て行き、飛段の知る限りではその後二度と現れなかった。
 絵をたしなむインテリやくざかと思ったのに、家は普通の一戸建て、車も国産ときてはどうやら角都はやくざではないらしい。あてがはずれた飛段は無遠慮に尋ねた。
「オメー、すじもんじゃねーのか」
 角都はじっと飛段を見た。
「いや」
「じゃあ刑事とか」
「いや」
 会話が続かない。大きくため息をついた飛段に今度は「動くな」と声がかかる。
「まったくお前は…あと五分我慢しろ」
 木製のスツールに腰をかけている飛段は、今度は目立たないようにそっとため息をついた。モデルなんて簡単、じっとしていれば金になるうまい話だと思っていたのだが、現実は甘くなかった。二十分間のポーズごとに五分間の休憩が入り、それを五セット繰り返す。二時間五千円の報酬は悪くないが、これなら交通整理のバイトの方がまだ楽だろう。
 ジリジリとけたたましくタイマーが鳴る。やっと固定ポーズから解放された飛段は角都に近づき、二十分間の成果を眺めてみた。白い大きな紙に黒々とした太い線が走っている。描かれているのは大きな流れで、腕や胴体、脚などは形になっているものの、顔などの細部はさっと線が引かれているだけだ。
「顔描いてないじゃん」
「細かいところはいいんだ」
「いや、よくねーって。ほら近くで見ていいからよォ」
 すぐそばまで寄せられた顔を角都は虚を突かれたように眺めたが、すぐに片手を上げて「もういい、あっちで休んでいろ」とスツールの方を指差した。休憩のときまでそれに座るのはごめんなので、飛段は五分間たっぷりアトリエの中を見て歩く。リノリウムの床の上にはいろいろなものが雑然と置かれているので退屈しのぎには困らない。
 それにしてもこの部屋は広い。家のほぼ半分をアトリエが占めているように見える。二十畳ほどもあるだろうか。コの字型の真ん中、一番良い場所に位置取ったアトリエには大きな窓が切られており、外には雑木が生え、さらにその向こうは海に続く丘陵が広がっていた。駅まで迎えに来てもらって家へ到着した時、その辺鄙さに飛段は驚いた。近隣には他の家屋がなく、まるで世捨て人の住まいのようだったからだ。
 またジリジリとタイマーが鳴った。飛段はスツールに戻って不安定に尻をのせ、忘れずに相手へ声をかけた。
「角都ゥ、今度は顔ちゃんと描けよ。あとせがれも忘れず描けよ。さっきのは何だかいい加減だったぜ。近くで見たいんならそう言えよな、オレはモデルなんだから遠慮はいらねーぜ」
 角都がまるでハエを追うかのように片手を振ったのを飛段は了解のしるしと受け取り、そうしてまた壁の時計を横目でにらんだ。外から潮騒が聞こえてくる。終わったら海を見て帰ろう、と飛段は考えた。せっかく夏なんだし。


→スケッチ4