ハキダメ

ダメ人間の妄想の掃き溜め

湯忍の面目(TEXT)

「では出かけるか」「けちんぼ」「オイド」の次です。これで止めます。
飛段が少し報われる話。オイドでちょっと冷たくしたので…。


 眼下に広がる峰々の薄明に浮かぶさまが、現実感を失うほどに見事だったので、登りきった峠で俺はしばらく立ちつくした。薄青から濃紺まで階調のついた透明な空の下、薄い茜に縁取られた稜線が徐々に色を変え、ふもとの靄に溶けていく。
 金以外の価値をあまり信用しない俺だが、換金できなくとも美しいものがあるという事実は認める。俺たちの組織には自称芸術家が二人おり、芸術は永続性だの爆発だのとうるさく騒いでいるが、巧まぬ自然の中にこそ美があると俺は思う。美と芸術は違うと言われればそれまでだが。

「角都、おい、ちょっと待てやコラ!」
 背後からの騒ぎにせっかくの雰囲気が壊され、俺はいささかムッとして振り返った。
「遅いぞ飛段。いつまで待たせる気だ」
「てめーが速すぎんだよ、どこまで行ってもいねェから置いてきちまったかと思ったぜェ」
 追いついてきた相棒は、あーあー参ったくたびれたァ、と年寄りじみた声をあげて無感動な視線をあたりに投げ、大きく開いた襟元から手を突っ込んで猿のように体を掻き、しまいに俺の顔を見上げて失礼なことを言い放った。
「うっわ汗くせっ!角都ゥ、おめーかなりキてるぜ。それって加齢臭じゃねーの」
 ひとのことを言えた義理かと返したが、確かに俺たちは獣のような臭いを立ち昇らせていた。十日ほど前に町を出て以来、俺たちは水を浴びることもなく戦闘をし、死体を担いで移動を重ね、換金を終えて帰路についているのだ。臭わないほうがどうかしている。
「しばらく水場はない。アジトに戻るまで風呂は我慢しろ」
「洗える時に洗ったらいーのによォ。ま、オレはどっちでもいいけど」
 バカの言葉は理解不能だ。
「我慢しろと言ったのだ。大体このあたりのどこに風呂がある」
「掘りゃいーじゃねーか。あの辺出るぜ」
「出る…何が」
「温泉」

 俺はまじまじと相棒の顔を見た。飛段は焦れたように言葉を続けた。
「だからァ、あすこ掘りゃ出るって。2メートルぐらい土遁で掘れるだろうが」
「なぜ湯脈があるとわかる」
「地形とォ、におい?草の生え方とかよぉ。なに、角都わかんねぇの?」

 そう言えばこいつは湯忍だった。遅ればせながら俺は興奮してきた。本当だとすればあのうさんくさい宗教よりよほど金になりそうな能力ではないか。
 飛段の示した岩場に移動し、試しに狭い範囲を突き崩してみると、はたして湯が湧き出し、みるみる黄変した。鉄泉だろ、と飛段がこともなげに言う。
「鉄臭えからすぐわかんだよ」
「すばらしい…飛段、これは金になるぞ。温泉は常に高い人気を誇るからな」
 俺の褒め言葉は、しかし一蹴された。飛段によれば、交通の便や名物などの湯の里が繁盛するための要素がそろっている所は、ほとんど開発済みだという。湯忍はウジャウジャいるんだぜ、あいつら忍のくせに温泉掘るほかに能がねえんだからよォと説明されて俺は少し気落ちしたが、それで目の前の露天風呂の魅力が褪せることはなかった。
 俺が穴を広げる間に、飛段は薪を集めて火を焚きつけた。いつもの野営の火より大きい。獣除けだという。
「前によ、木も何もないとこで風呂に入ってる最中に山犬がズボン咥えていきやがってよォ」
「山犬の気配がわからん時点で忍失格だろう」
「あいつら気配なんてこれっぽっちもしねーぜ。おかげでフリチンで追っかけなきゃなんねーし咬まれるしで散々だったんだからよ。あんなことは二度とゴメンだからな」
 穴の用意ができたので薪拾いを手伝った。ああは言ったが俺もズボンは大事だ。

 久しぶりの風呂は格別だった。岩場に寄りかかり、西に傾く半月を眺めながら俺は存分に湯を楽しんだ。飛段は上半身を湯から出し、岩棚に肘をついて、やはりぼんやりと月を見ている様子だった。珍しく静かな相棒の優れた容姿を再認識していると、相手の視線がこちらに向いた。少しバツが悪かったが、見ていないふりをするのも億劫だし、なにやら惜しい気がしてそのままでいると、飛段が大きなため息をついて湯の中を移動してきた。
「いろいろダメだってェ、角都。温泉ぐらいでそんな幸せそうなツラしやがって」
 俺は黙ったまま、大体こんなに穴広げたら湯が冷めるだろーがなどと言いながら近づいてくる飛段を見ていた。目の焦点が合わないほど距離が近くなっても、目を逸らすことができなかった。おめーこんな時でも目ェつぶらねぇんだな、と、身を離した飛段が薄く笑った。
「月並みだけどよォ、他の奴の前でそんな顔したら、殺すぜ」
「お前にそれを言われる日が来るとは、長生きはするものだな」
 体を入れ替え、削られた岩肌に相手を押しつけながら、なぜか俺は夕暮れ時に見た山々の稜線を思い出していた。焚火の炎が飛段の肩に明るい影を落とす。湯を俺の唇に塗って、血の味がすんだろ、と舌を伸ばしてくる飛段の頬にも影が躍る。めらめらと動くそれに魅入られながら、本当にこいつは、と俺は考え、そのあとの言葉を探そうとした。本当にこいつは。