ハキダメ

ダメ人間の妄想の掃き溜め

脱却(TEXT)

たっこ様からのリク「飛段と一緒に寝て熟睡する角都の話」「子ひだんとおじいちゃんの話」を合体した話です。
…はっきり言って、全然リクと違う!えーナニこれ!な話になってしまいました。でも書いていて楽しかったんです。主旨を勝手に変えてすみませんでした、たっこ様。これに懲りず、またリクを恵んでいただけたら嬉しいです。




 胸の前にぶら下げた箱を両手で支えた弁当屋が売り文句を張り上げながら混雑の中を歩き回る。べんとー、えー、べんとー。あまり売れ行きは良くないらしく、弁当屋の首と背に箱の紐が食いこんでいる。どこもかしこも不景気とみえる。けれどもそんな弁当屋もベンチに影のように座り込む角都には目もくれない。買わない客を見分ける確かな選眼があるらしい。
 客車から吐き出された群衆がひしめきながらホームを流れて行く、その切れ目から、角都は遠く離れた売店の前に立ち続けている子どもを確認する。見れば見るほど異様な子どもだ。半月ほど前に昔の女が子連れで現れたときにも角都は同じことを考えた。この冬空に木綿の半ズボンとシャツというなりの幼子は、薄い肌や髪の色のせいか妙に人形めいていて、いっそう寒々しく見えた。
 この子は飛段、あなたの子よ。
 俺たちが一緒にいたのは十年以上前だ。その子は五歳ぐらいだろう。
 あなたの子よ、私にはわかるの。引き取ってよ。
 割れた唇を紫色にして言いつのった女は子どもをアパートの扉のすきまから無理やり押し込むと安普請の扉を叩きつけて閉め、草履をひっかけた角都が表に出たときには姿を消していた。ガツガツという靴音だけがいつまでも反響していた。角都に見つからないよう気をつけながら、そのあたりをぐるぐると狂ったように走り回っているのかもしれなかった。
 だから角都は子どもを追い出さずその日一日女を待ったのだ。しかし角都の予想は外れ、女は戻ってこなかった。苛立ちをあらわにする角都を子どもは嗤った。
 けけけクソジジイ、あの女を待っても無駄だぜ、バーカ。
 それでも角都は子どもを追い出さなかった。自身が追い出される日が近づいている今、子どものことなど瑣末な問題だった。金策に走り回る角都はいっさい子どもの面倒を見なかったが、子どもはひとりでどうにかやっているようだった。多分パンでも万引きしていたのだろう。夜だけ子どもは角都に頼り、一組しかない布団にもぐりこんできた。山積した問題に神経をすり減らしていた角都は浅い眠りに悩まされていたが、体温の高い子どもを腹に抱えると不思議によく眠れた。多分部屋に暖房がないせいだろう、と角都は考えた。
 要はカネだ、と角都は苦々しく振り返る。金さえあれば仕事も住居も失わずにすんだのだ。自分を陥れて金を持ち逃げした共同経営者を角都は決して許さない。いかにその男が難病に苦しむ妻のためにすさまじい借金を抱えていたとしても。
 子どもは相変わらず角都に指定された場所に立ち続けている。置き去りにしたのが午後六時をまわった頃だったからもう五時間になる。駅員は何をしているのだろう、あいつもさっさと誰かに助けを求めれば良いのに、と角都は腹を立てる。角都自身、もはや住む場所はなく、わずかなつてを頼りに郷里に戻ることにしたのだ。切符はもう買ってしまった。今日発の汽車は次の最終を残すのみで、これを逃すと切符代が無駄になってしまう。
 おいガキ、俺の故郷は寒い、そんな服では凍えてころりと死ぬだろうし、そうならなくても俺にこき使われて死ぬ思いをするだろう。それでいいなら勝手についてこい、どうせ貴様の汽車賃はタダだからな。
 へっ、オレはフジミだっつーの、そうかんたんに死ぬかよ。
 脅し方が足りなかったのかもしれない。怯えもせずへらりと笑う子どもを、しかし、角都は同行させる気などみじんもなかった。荷は少ない方がいい。それにホームに置き捨てておけばおせっかいな奴が保護して、あるいは子買いがさらって行ってくれるかもしれない。どちらにせよ今よりはましな人生になるだろう。角都は駅の売店でゆで卵をひとつ買い、それを子どもに与えると、発車時刻を調べてくるからここで待てと言い残して場を離れた。そのまま汽車に乗ってしまえばよかったのだが、結果を見届けようとしたことでとんでもない足止めを食うことになった。
 駅員の割れた声で最終列車の案内が流れる。この列車は本日最終となります、お乗り遅れのないようにお気をつけてください。ホームの人の流れがせわしくなる。あちこちに別れを惜しむ姿があり、あたりはざわついている。子どもはさすがに落ち着きなくきょろきょろしているが、その場を動こうとはしない。と、その足元に黒いしみが広がっていくのが遠目にも見えた。隣に立っていた男がぎょっとしたように体をずらす。通りかかる女も足をとめる。女が連れている子どもが、わーションベン漏らしよる、と声を上げる。またたく間に遠巻きの人だかりができて子どもの姿は角都から隠された。
 けたたましい発車ベルの音を聞きながら角都は歩き始めた。歩調がみるみる速くなった。大股でまっすぐに歩いていく黒いコートを着た長身の男とぶつからないよう人々は道をあけた。
 棒のように立っていた子どもは自分の名を呼ぶ声に反応して目を上げ、角都を認めると、顔全体の造作をゆがめて小刻みに足踏みをした。寒い吹きさらしのホームの上で小便に濡れた素足がばたばたと黒いしみを踏む。どうしようもない状況に向き合うと人はこういう無意味なことをする。角都はそれを良く知っている。小さな両手でしっかりと包み持たれた卵の白が角都の目に焼きつく。
 人の輪に割り入った角都は迷いなく子どもを抱きあげ、既に動き始めている列車を追って走り始めた。ガシャン、と連結部が鳴って列車の速度が増す。角都は腿を高く上げて最後部の扉と並走する。手動のドアは内側から開けられ、デッキに立つ乗客が手をさしのばしている。群衆でしかなかった者たちの顔が角都へ向き、励ましの声がかかる。もう少しだ、がんばれ、がんばれ。そうして今までどんなに困窮しても取ることのなかった他人の手を角都は握り、飛段もろとも、新しい環境へ飛び込んでいく。