ハキダメ

ダメ人間の妄想の掃き溜め

独語・スケ8(trash)

難産だったわりに、ん?な内容ですが、スケッチ話です。



<スケッチ 8>


 駅前のロータリーに角都の車がない。飛段はまず自分が曜日を間違えたかと考え、次に先週予定の変更について角都から話があったか記憶をたぐった。こんなことは今までになかった。電話をかけるとすぐに角都が出た。前回のモデル時に飛段から次週の予定が埋まっていると話があったので今日は来ないと思っていたと言う。
「言わねーよそんなこと」
「知り合いの家に鹿を見に行くと言っていたぞ」
「かもしれないって言ったんだよ、モデル休むときにはいつも電話するだろ、今日はしなかったじゃねーか」
「…そこで待ってろ」
 切れた電話を握ったまま飛段は舌打ちをした。晴れ晴れとした気持ちがしぼんでいく。確かに友人の話はした。だが休むと明言していない以上角都は迎えに来るべきだろう、モデルを頼んできたのは飛段ではなく角都なのだから。依頼を受けなければその時間を飛段はもっと有効に使えたはずだ。待つ間にますます不機嫌はつのり、ようやく見慣れた車が現れたときには今日でモデルを辞めようと飛段は決めていた。せっかく来たのだから今日の報酬はいただく。だが次はない。
 むっつりと押し黙ったままの飛段に角都は特に話しかけることなく運転をする。内心で何を考えているのかはわからないが表面はいつもと同様に静かなもので、飛段はそれも気に入らない。あとで見ろ、と幼い感情をたぎらせながら飛段は窓の外をにらむ。
 いつもの道の終点、水平線を背負った家の前の路上にランドクルーザーが停まっていた。角都が、ふう、と息をつく。歓迎している様子ではない。飛段は車の持ち主を尋ねようとしたが、腹を立てていたせいで気軽に口がきけず、訊くことができない。駐車場に角都の車がすべりこむのと同時にランドクルーザーのドアが開き、大柄な男が出てくる。角都と飛段も車から降りる。世間一般的に飛段は背の高い男であり、角都はさらに上背があるのだが、男は角都よりも一回り大きい。
「来るなと言ったろう」
「電話もらったときにはもうそこまで来ていたからな、どうせならお前の面と一緒にモデルも拝もうと思ったのさ」
 でも女じゃないのか期待して損したぜと男は笑い、髭面を飛段に向けた。ここで角都以外の他人と会うことを考えていなかった飛段は相手をじろじろと眺めた。シャツとズボンは飛段から見ても良い品だが、首に掛けたタオルにはどこかの八百屋の名前が入っている。見かけに頓着しない性格らしい。口には煙草。
「角都ゥ、誰だこいつ」
「おれは医者でな、怠けて病院に来ない奴のところを回ってるのさ。こう見えてもけっこう忙しいんだぜ」
 オレは角都に訊いたんだ、自然に会話ができそうだったのにこのバカヤローが、と飛段は駄々をこねたかったが、子どもっぽいことだとわかっていたので黙っていた。相手は気にする風もなく、ここは涼しいなあ、などと言ってどっしりと立っている。角都の反応を待っているらしい。角都、こいつを追い返せ、と飛段は念じる。オレが来たんだからこいつは邪魔だろ、さあ帰れって言ってやれ!
「…悪いが手早く済ませてくれ、こいつを描く時間が減るからな」
 おう、と応えた髭の男と角都がさっさと家に入っていくのを飛段は呆然と見送るが、すぐさま後に続く。髭男が受け入れられたのは不満だが、男が帰った後には絵を描くのだと角都が言ったし、それに角都と男を二人きりにするのはどうにも面白くない。
 アトリエを除けば角都の家はさして広くなかった。入口を通るとすぐに居間があり、隣に台所、そこを抜けたアトリエの奥に角都の部屋がある。前の二人が角都の個人スペースへ入っていく。飛段はアトリエと角都の部屋の境目に立ち、つま先でドアを押さえて開いたままにした。礼儀に反していることはわかっている。興味本位で他人の私生活に立ち入るべきではないのだ。葛藤そのままに中途半端な場所で立ち尽くす飛段を髭男がちらりと見る。と、角都がシャツを脱ぎながら独り言のように言う。
「構わん。いつもそいつの体を見ているんだ、たまにはこっちの体を見せてやってもいいだろう」
 髭男がカバンから器具を出し、角都の血圧を測り始めるが、飛段の目は自分に向けられた角都の背中に吸い寄せられる。腕や顔に傷があるのだし、それが体にもあるだろうとは思っていたが、角都の背はまるででたらめな路線図のような縫い目に覆われていた。縫われる前の損傷を想像して飛段は戦慄する。いくつかの傷跡はズボンの中へも続いている。角都の腹を診ている髭男の手元で、カツリ、と硬い音がする。
「来年で丸五年だってのに、まだ破片が出てくるとはなあ。オヤジが生きていたらお前を研究材料にしたろうに」
「腕は良かったが食えない奴だったな、いずれ貴様もそうなるんだろうが」
「褒め言葉として受け取っておくぜ」
 髭男は角都の背後にもまわり、縫い目を指でなぞって調べると、先ほど角都が脱いだシャツを振って傷だらけの背に掛けた。病院嫌いもほどほどにしろよと小言を言う声が優しい。
 飛段はドアから離れると、アトリエの真ん中にある自分の椅子(ポーズ用のベンチを飛段はそう呼んでいた)に座り、室内を見まわした。もとは宗教施設の懺悔部屋に置かれていたベンチだという、そのとろりとした手触りの座面はいつも通り気持ちを落ち着かせてくれる。今日のところは負けを認めよう、と飛段は考える。何に負けたのかは自分にもよくわからないが、とりあえずモデルは継続するとしよう。ここをやめたらベンチをなくしてしまう。仮に角都が譲ってくれたとしても狭いアパートに置く場所はないし。


→スケッチ9