ハキダメ

ダメ人間の妄想の掃き溜め

逃がした魚は大きいか(parallel)

さくま様からのリク「料理」による小話です。



義理で出かけた祝儀の帰り、元オヤジの家に居候している男に偶然出会った。おれのかわいい8Cスパイダーを狭い路地に滑り込ませたとき、そこのフェンスに寄りかかって阿呆面をさらしていたのが奴だったのである。やー奇遇だねこんにちは、とおれは声をかけた。挨拶は常に先手必勝だ。量販店の商品らしい黒いパーカーと黒いジーンズを身につけダサいエコバッグの中を覗いていた男は、ハァ?と言って顔を上げ、靴底に貼りついたガムを見るような目でおれを見た。ああテメーか、何の用だよオレは忙しいんだよ。非常に無作法な台詞をおれは笑顔で聞き流す。このぐらいで怒っていたら政治家は務まらない。冷たいなー飛段君、せっかく偶然会えたんだからちょっとぐらい話そうよ、お腹空いてない?そこのホテルのラウンジ、なかなかうまい軽食を出すんだけど一緒にどう?ローストビーフのサンドイッチとか生ハムのピザとかさぁ。男の目が少し揺らぐ。思いつきで誘ったんだがどうやら当たりだ。こいつは肉に餓えているに違いない、元オヤジと同居しているんだから毎日ヒジキやら豆やら青菜ばかり食わされているはずなのだ。こいつを手懐けることができればおれに対する元オヤジの態度も変わるかもしれない。今まで使って失敗したことのない低めの声でおれは熱心に男を誘う。大丈夫、そんなに時間かからないし帰りは家まで送っていくから、オヤジの話も聞きたいし、ね。男は答を探すように再びエコバッグに目を落としたが、すぐにそれを上げると、わりーけどダメ、とあっさり断ってくれた。今日はオレが夕飯当番なんだよ、角都がカップ麺を食ったことねーって言ってたから買ったんだけどさ、あとハンバーガーとポテトも買わなきゃなんねーし。ご丁寧にも運転席まで近寄ってエコバッグを開き、中のカップ麺を見せてくれる男の顔を、おれはまじまじと見る。腐乱死体にも全裸の美女にも動揺しない自信があったおれを一個88円のカップ麺で黙らせた男は、オレもう行くからなと言って車を離れ、数歩歩いたところで振り返り、テメー笑ってねえ方がマシなツラに見えるぜ、と失礼な言葉を残していなくなった。すぐに我に返ったおれは急いで薄い笑みを顔に貼りつけ、ウーステッド製のスーツの襟を意味もなく払い、とりあえず当初の目的地だった高級ホテルへ車を走らせた。こんなことを認めたくはないが、あの時おれは選択を誤ってしまった。車など路駐しておいてあの男について行けば、カップ麺を啜るオヤジが見られたというのに。