ハキダメ

ダメ人間の妄想の掃き溜め

飛段、バイトを始める(parallel)

我が魂の友さくま様よりのリクエストによる話です。第一話のお題は「ワニの涙」。



 困った羽目に陥ると、飛段は母のことを考える癖があった。自分がクソ溜めに落ち込んでいるのは自分のせいで母が悪いのではない。しかし母がそもそも自分を産まなければこんなことにはならなかった。相方無しに子を産み、それを捨てた母の葛藤は飛段には不明だ。なんで行きずりの男とそんなことをしたのかも。
「あー死にてぇ」
 出たぜ飛段のオハコが、とつまらなそうに牌をもてあそんでいる一人が言う。これも負け組だが自己返済能力を持っているので問題無い。
「お前の取り巻きを一人譲ってやりゃいいんじゃね?シカは今フリーだろ」
 飛段はかぶりを振る。それこそトラブルの元だ。これ以上トラブルを増やすのはまずい。一人勝ちした若者は眉を寄せている。飛段が金を返せないことぐらい良くわかっているのだ。しかしチャラにしては他の者と釣り合わなくなる。ただでさえ女が切れない飛段の受けは悪い。
「おい飛段、お前体でも売ってこいや」
「それって臓器、それともナニの方?」
「バカ、お前の臓器を入れられる人の身にもなれ」
「ナニなら入れてもいいのかよ」
 お前にナニを入れたい奴なら心当たりがあるぜ、と言った男に他意はなさそうだったが、飛段はひどくうんざりして黙り込んだ。なぜいつもこうなるのだろう、部屋も生活もなにもかもひどく荒れ乱れていてどうしようもない。体を売れば少しは退屈しのぎになるかもしれないとも思ったが、それも面倒くさかった。別に借金をどうしようとも考えていない、返していない借金などいくらでもあるのだ。
 腕組みをしていた若者がため息をついて立ち上がった。
「めんどくせえ。おい飛段、アンタ明日俺と付き合え。バイト紹介してやるから」
 自分に務まるバイトがあるとは思えないが、女たちが前触れもなく訪れてくるアパートで居留守を使っているよりはマシな時間になるだろう。どんなバイトだよ、と周りが囃すなかで飛段は無気力に若者を見返し、頷く代わりに俯いた。


 指定されたパチンコ屋で飛段は生欠伸を噛み殺しながらあたりを見回した。借金してまで遊ぶ気力のない飛段にとって、ここは良くも悪くもない、ただひたすらにやかましい場所だった。居心地は悪くない。隣の台が派手な音を立てて玉を吐き出す。ピラリラピラリラと音楽が鳴ってモニターの画像が動き、ライトが点滅する。レバーをいじるだけで大した騒ぎだ。それを口にすると隣席の男はつまらなそうに飛段を見た。
「レバーじゃなくてハンドルだ、それに考えてみろ、しーんとした部屋に野郎が大勢座ってじっと盤を見てたら気味悪いだろ」
 それから十分ほど打つと、シカマルは樹脂性の箱に玉を流し入れ、それを飛段に運ばせて景品と交換した。飛段はわずかな元手が物品に変わるのをさほど驚かずに受け入れた。この友人がいろいろな技にたけていることは飛段にとって自然であったし、シカマルも飛段の前では能力を隠さなかった。米と缶詰はずっしりと重く、伸びて細くなった袋の持ち手は飛段の指に食い込んだ。
「アンタ煙草吸わねーよな」
「ありゃくせーからな」
「携帯持ってるか」
「や、そんなん持ったらいろいろ大変だろうが」
「よし。飛段、アンタにやってもらうのは、ある人の訪問だ」
 シカマルの話は簡単だったが、よく理解できない飛段は何度も聞き返し、そのたびにシカマルは根気よく説明した。
「その人は一人暮らしの爺さんだが金持ちだし何でも自分でやれる、けど遠くに住んでる息子は心配して、ちょくちょく様子を見てほしいって俺のオヤジに頼んできたんだ。で、オヤジがそれを俺に振った。別に金になる仕事じゃねーけど、アンタがやってくれるんなら俺が助かる」
「なんで息子は心配すんだよ。そのジジイ、テメーでなんでもできんだろ」
「心臓が悪いそうだ。死んだの知らねえで放っておいたら外聞が悪いだろ、息子は政治家らしいからな」
 ふーん、と飛段は相槌を打ち、重い袋を揺すりあげた。
「ぽっくり死ねたらラッキーじゃん」
「そんなこと爺さんの前で言うなよ。ここだ…飛段、こっちだって、おい!」


 老人はシカマルにも飛段にも等しく無愛想な態度で接し、シカマルが飛段の紹介を終えるとさっさと屋敷の奥へ引っ込んだ。米と缶詰を受け取ったってことは話がついたってことだ、じゃあな、とシカマルが立ち去ると、飛段は暗い玄関に一人取り残された。
 老朽化していながらも掃除の行きとどいた廊下にあがりこんだ飛段は、老人の後を追って奥へと進んだ。入ってすぐの客間を過ぎると居間があり、そこに入ると隣の小部屋で机に向かう老人の姿が見えた。入って良いものか飛段は迷い、居間との境目に立ったままとりあえず声をかけた。
「オレ、飛段。おめー、名前は」
 老人は、ぱりり、と本のページをめくった。飛段は相手の返事を待ったが、すぐにしびれを切らした。
「オレさ、何すればいいわけ」
 突然老人は本を閉じ、椅子から立ち上がると飛段の隣をすり抜け、居間の奥の部屋へ入っていった。飛段がついていくとそこは台所で、椅子に掛けた老人は急須に湯を注ぎ、茶を入れてすすった。飛段の分はなかった。
「おめータッパあんのな。ジジイのくせにオレよりでけーじゃん」
 飛段としては精いっぱいの社交辞令だったのだが、老人は黙したままだった。良かれ悪しかれ無視されることに慣れていない飛段は苛立った。
「おい何か言えよ、なんもわかんねーだろが」
「…何が聞きたい」
 低く粘るような声を飛段は不快気な面持ちで受け止めた。
「何でもいいよ、テメーのことでいいからなんかしゃべれよ」
「他人にものを訊くときには、まず自分から話すのが礼儀だ。よほど甘やかされてきた小僧だな」
 飛段は頭に血が上るのを覚えた。これはバイトだ、感情的になるな、とシカマルの声が聞こえるような気がしたが、その抑制を突き破るように飛段は初対面の老人に向かって怒鳴り声を張り上げた。
「ハァー?甘やかされてんのはテメーだろが、金もあって息子もいてなんも不自由ねーんだろ、ふざけんじゃねーぞ、オレはテメーよりずっとずっとひでー地獄を見てきたんだ、ガキんときなんか毎日ぶん殴られてメシも食えなくて」
 母の声が不意によみがえった。飛段、あなたは神の子なの、特別なの、パパなんかいなくたってママがいるもの平気でしょ。そこに何種類もの男の声がかぶさる。なんだガキか、うるせえなあどっかに捨ててこい、おい部屋を覗くな出ていけ、服を汚しやがって糞ガキが、可愛いけど下品な目をしているね、きっと好き者なんだね。そしてまた母の声。ああいやだ、もういや、あんたさえいなけりゃあたしは自由に何でもできたのに。
「便利な涙だな」
 目に湧いたものを揶揄されて、飛段はざっと熱が冷めるのを感じた。心ない老人の言葉に傷ついてはいたが、それよりも最近稀になっていたはずのフラッシュバックに身を任せてしまったことに動揺していた。一歩後ずさると、もう歯止めは利かなかった。飛段は先ほど入ってきたばかりの玄関からつんのめるようにして出ていった。遠くで正午のサイレンが鳴った。こうして飛段のバイト初日は終わったのだった。