ハキダメ

ダメ人間の妄想の掃き溜め

痕跡(parallel)



じゃあまた来るぜ、と言い置いて若造が帰っていった。見送ることなどしないが、角都の耳は若造の立てる音を無意識に追う。かしゃりとコンビニの袋を拾い上げ(最近若造は弁当を持参して昼前から夕方まで居座るようになった)、ざっざっと畳の上を歩き、みしっと板張りの廊下を鳴らして玄関へ進み、ざりざりと靴を履いて、がらり、がらりと戸を開けて閉める。とっとっとっ、と足音が離れていき、気配が完全になくなると、角都は脆い古書の表紙を注意深く閉じて立ち上がった。遠くに住む息子が自分の様子を案じて訪問を頼んだとメールで知らせてきたとき、角都はそれに返信すらしなかった。電話を設置しないことがどうしてそんなに不安を呼ぶのか角都には理解できない。電話など金がかかるばかりのやかましい代物ではないか。誰かを呼びつけたところで迅速な助けが来るわけではなく、何か事が起きたら自分で対応するしかないだろう、一人暮らしなのだから。ひどく煩わしく思われた他者の訪問は、しかし始まってみれば大したことはなかった。飛段という名の若造はまったく何の役にも立たなかったが、他人の私生活に干渉はせず(多分興味がないのだろう)、相手の都合など頓着せずに好き勝手に訪れてはいなくなるのだった。何かを詮索することもなく要求もしない。けたたましい携帯電話を持っていないのも美点の一つだ。総じて二人はそこそこうまくやっているのだった。角都はつい今しがたまで若造がいた居間を覗いたが、枕にしていたらしい二つ折りの座布団よりほかに他人がいたことを示すものはない。あいつの匂いは薄い、と角都は思う。昔より衰えたとはいえ角都の聴覚や嗅覚は社会生活において不要なほどに鋭いものだが、それでも飛段の匂いはよほど近くに寄らない限り感じ取ることができないのだった。ときどき血臭をさせているが無軌道な年頃にはありふれたことだしそれこそ角都の知ったことではない。そろそろ夕食を作る時刻だったが、その前に厠に立った角都は暗い小部屋の灯りをつけて扉を閉ざしてから不意に頭を上げた。若造は帰る寸前に陶磁器製のアサガオを使用したらしい。姿も音もその場限りの情報だがにおいだけは後まで残る。まるで時間差の連れションだと考えつつ自らも用を足した角都は、就寝前にまた小部屋に入った際に無臭のしんとした空気に不本意ながら失望し、手荒に換気用の小窓を閉めた。どこからか紛れ込んできたコオロギが一匹部屋の片隅で所在無げにじっとしていたが放っておいた。明日若造に言って出させれば良い。なに、たった一晩の辛抱じゃないか。



※お題「残り香」