ハキダメ

ダメ人間の妄想の掃き溜め

転機(parallel)



 角都はあまりタクシーを使わない。鉄道が整備された都会に住めば大概の移動はそれでこと足りるし、数キロの距離ならば歩けば良い。株購入の下調べに訪問した会社でタクシー券をもらわなければ、その夜も歩いて駅まで行くつもりだった。景気を尋ねる角都に初老の運転手は訛りを含んだ声で、全然ダメですわ、と答えた。そうだろう。角都も件の会社の株購入は見合わせようと考えていた。将来性を考えれば充分に安い、だがまだ下げ幅がある。景気はこれからも悪くなるだろう。
 タクシーは角都が日頃歩かない区域を走行していた。繁華街と呼ぶにはけばけばしい一角を通過したとき、通りを隔てた路地で数人の男たちが不規則に激しく動いているのが見えた。そのまま通過する車の中で角都は少し考えていたが、区画を過ぎたところで心を決めた。
「悪いが少し戻ってくれ。交差点の右側に高い雑居ビルがあっただろう」
「そりゃ構いませんが行先はどうされます」
「ちょっと寄るだけだ、すぐに戻る」
 中央分離帯を挟んだ道路を、Uターンできる場所までタクシーは走らなければならなかった。自分が到着するまでにうまくことが済んでいることを角都は望んだが、そうはならないだろうとも思っていた。済んでいるとすれば悪い方へ決着がついているだろう。角都はアタッシュケースのハンドルに触れた。マグネシウム合金のこれは理想よりも軽い。だが手持ちのもので間に合わせるしかない。
 路地の手前で降りた角都は迷わずに角を曲がった。曲がる前から背後の交通騒音に負けない怒鳴り声が聞こえていた。調子に乗んじゃねーぞコラ、ひとの客に手ェ出すなつったろーが。知るかよあんな女勝手にオレんとこ来ただけだっつーの、んな大事なら紐でもつけとけタマ無し。貴様殺すぞ。ハァ?殺せるもんなら殺してほしーよホント。
 角都は飛段を羽交い絞めにしている大柄な男の首の後ろを狙って水平にケースを振りぬいた。死なれては困るので急所は避けたが、男はゴッと声を出すと勢いよくうつぶせに倒れ、起き上がらなかった。下敷きになってわめく飛段を捨て置いて角都は前へ進み、胸元をはだけた黒スーツの男の顎の下からケースを振り上げ、その隣の別の黒スーツの頭上へケースを落とした。二番目の黒スーツは横ざまに倒れてから少しもがいたが、腹を蹴られると静かになった。
 大男の下から這いだした飛段は角都に腕をつかまれて引き起こされるままに道を走ったが、大通りへ出る寸前にそれを振り払い、別の路地へ逃げ込もうとした。角都は躊躇なくアタッシュケースで相手の脇腹を打った。つぶれたスナックのシャッターに叩きつけられた飛段は路上に膝をつき、咳きこみながら角都を睨んだ。恨めしそうな顔だった。
「くそ、いてーじゃねーか」
「早く来い。タクシーのメーターが上がる」
「知るかよ」
 角都は背後を確認した。誰も追っては来ない。けれども長居するべきではない。
「ぐずぐずするな、巻き添えは御免だ」
「なんだよ勝手に割り込んできやがって何様だよテメー、オレのおふくろかァ?オレゃ一人でやれたぜ、テメーの世話になんかなるかよ」
 押し問答をするつもりのない角都は飛段のシャツの胸倉をつかんで吊り上げ、揺すぶった。飛段の鼻から血がそこらじゅうにはね飛んだ。
「誤解するな、お前がどうなろうと俺は構わん。だがお前がいなくなればまた別の奴が俺のもとへ来る。やっとお前に慣れたのだ、これ以上俺に面倒をかけるな」
 不明瞭にわめきながら抗う飛段を角都は力任せに引きずり、待たせていたタクシーへ乗り込もうとした。血まみれの男を見て驚きしぶる運転手へ金は払うと怒鳴り、飛段を先に押し込もうとしたが、相手も手足を突っ張ってがんばる。業を煮やした角都は飛段の頭をつかむとドアのフレームへ打ちつけ、動きが鈍くなったところで車内に蹴り入れて自分も乗り込んだ。早く出せ、行け。勘弁して下さいよお客さん、と運転手は訴えながらも車を急発進させてテールランプの流れに割り込んだ。いったいなんなんですかその人、知り合いですか。まあそんなものだ、と角都は答え、往生際悪くドアロックを外そうとする飛段の両腕を背後にひねりあげると、その上体を膝の上に押さえつけた。さわんな、死ねクソジジイ、と飛段がわめいて身をよじった。
「飛段、お前のアパートはどこだ」
「うるせえ」
 ごり、という音が耳からではなく体内から聞こえたとたん飛段は動きをとめた。呼吸まで止めて硬直する飛段の耳元で角都がささやく。
「小指の第二関節を外した。こんな部分だが痛いだろう。お前がくだらん意地を張るのをやめれば嵌めてやる。だがまだ続けるんなら全部の指を外してやってもいいぞ」
 飛段の意地は十秒ともたなかった。アパートは追い出された金が払えなかったから、と白状しながら飛段はほとんど泣いていた。オレは何もできない、仕事も全然できない、人ともろくに付き合えない、オレはダメだ、どこで何をしてもダメだ、死にたいくせにメシなんか食ってるオレはダメだ、おふくろはなんでオレなんかを生んだりしたんだろう。
「指を外したぐらいでピーピー泣くな」
 角都は小指の脱臼を元へ戻すとその手をしっかりと握った。飛段の地獄は飛段だけのものであり、角都にできることは何もないのだった。なめらかに走るタクシーの中で馴染みの無力感を砂のように噛みしめながら、ぼうぼう、と犬めいた声を上げる頭を腹に抱えたまま角都はゆっくりと背を丸めた。



※お題「黙って俺についてこい」