ハキダメ

ダメ人間の妄想の掃き溜め

出立できず(Crane)

飛段×ペインを主とした小説サイト「SKIN TO SKIN」様のお話のひとつです。言葉という記号はつなげ方によってとてつもないイメージを喚起しますが、こちらのサイト様にあるお話はすべてが力強く、しっかりとした光を放つようで、固有の文体があるというのはこのようなことか、と私はただ眩しく仰ぎ見ておりました。
平成22年4月でSKIN TO SKIN様は終了されました。お疲れさまでした。厚かましいお願いを管理人様が快諾して下さいましたので、サイトの中でも私が愛してやまないお話「出立できず」を拙宅に飾らせていただくことになりました。
言葉で世界が広がる、その不思議さ、すばらしさを皆様も味わってくださいませ。





『出立できず』




 私とペインは里を出て船を乗り継いでいた。
 一つ目と二つ目は大きく丈夫そうな船だった。だが最後のこの船は小さく頼りなかった。しかも早朝に一便発つだけだったので、私たちは知らない町で一夜を過ごさなければならなかった。
 小さな船の乗客は、私たち以外は老女一人だけだった。誰もそこに用なんてないのだ。
「今日はやけに霧が多いですね」水夫と船頭の会話が聞こえる。「そうだな。何も起こらなければいいんだが」
 狭い船内で老女は私たちに「ご夫婦なの?」と訊いてきた。私たちはごくたまに他人から――彼女のように視力の衰えた人から――こんな質問をされる。
「いいえ」ペインは静かに、だが毅然とした声で答える。「違います」
 彼は飛段と出会ってからこの問いかけをきっぱり否定するようになった。老女はそれ以上何も訊いてこなかった。
 二時間ほど経つと埃まみれの窓から島が見えた。霧がかった曇天の下で、島は黒い影となり死んでいるように見えた。ペインと私は甲板に出て全景を見極めようとした。霧など彼の瞳術の妨げにはならない。
「何も無い」
 ペインは無感情に口にした。私は前方を見据える彼の横顔を眺めた。湿った冷たい風が彼の髪を揺らした。彼は地図から消し去られた村の、忘れ去られた村の、朽ち果てた聖堂に取り残されたイコンを思わせる。静寂の中で物言わず佇み、傷つき色褪せても内なる輝きは失われていない。「あの人は一体どういった方なのですか?」こう訊ねてくるのは眼でものを見ることをやめた人々だ。

「帰りは五時です」若い水夫がロープを括りつけながら言った。「遅れたら明日まで船はありませんよ」
 私たちは波止場に降り立った。瓦礫が散乱する一面荒れ果てた土地に人の姿は全く見当たらない。ここの人々は地下街に住んでいるのだ。まるで太陽から逃げるかのように。さっきまで側にいた老女の姿はすでにない。彼女はどこに消えてしまったのだろう。

 地下への入口は、地上で唯一の建物である廃墟と化した鐘楼の中にあった。ペインによると、通気口は何箇所もあるが、入口と呼べるものはここだけだそうだ。つまり出口もここだけで、私は地下に住む人々の心理が理解できない。彼らは自分たちがいずれ生き埋めになるのを受け入れているのだろうか。私たちは暗く奈落の底へ続いているような、今にも崩れ落ちそうな階段を下りていった。
 地下街はさらにぞっとするような世界だった。街はどこまでも続いているみたいだった。そのあらゆる場所に、かすかに、だが確かに異臭を放つ水路が入り組んでいた。全ての歩道は水路に沿っていた。大雑把に塗り込められた壁に点々と照明が取り付けられていたが、光が足らなさ過ぎた。そのため水路はさらにどぶ川のように見えた。歩道と水路のあいだには柵はなく、足を踏み外せばすぐに落ちてしまうだろう。子供たちがその際を走り回っているすぐ側で、肌を露にした娼婦が客を引いていた。酸素が薄く、湿気と煙草の煙が充満していて息苦しい。
「さっさと済ませよう」
 ペインが棘を含んだ声で言った。彼もうんざりしているのが伝わってきた。
 私たちは徐々に増えていく人込みを掻き分け、街の中心部の市場までやってきた。酔っ払いが麻薬売りにくだを巻く声と、肉屋で買物をする母親におぶられた赤子の泣き声が混ざり合っている。私にはその激しい泣き声が、運命を呪うかのような悲痛なものに聞こえた。ペインは市場の一角にある、場違いに建てられた宿屋の呼び鈴を押した。ほどなくして扉が内側に開き、頬がこけ眼ばかりが大きい、年老いた小男が顔を覗かせた。彼はわずかな隙間から私たちを見定めるように視線を走らせ、「空いてる部屋はないよ」と怪訝そうに言った。
「この男が泊まっているはずだ。俺達はこいつに用がある」
 ペインは懐から写真を一枚取り出して相手に突き付けた。男は写真を見て苦々しく溜息をついた。疲れ切っているようだった。薄暗い中でも、彼が何か眼病を患っているらしいのが分かった。
「入りなさい。ただし大きな声は出さんでくれ」
 男は私たちを二階に案内した。ここにも湿気と水路の異臭が入り込んでいた。彼は一列に並んだ四つある部屋の内の、一番奥の部屋の扉を開けた。それも勝手に、しかも鍵を使わずに。
 窓のないひんやりとした狭い石造りの部屋には、壁に沿って小さなベッドと一人掛けのテーブルと椅子が置かれていた。ベッドには人が一人横たわっていた。その顔には白い布が掛けられている。男は布を摘んで持ち上げた。「これで満足かね?」
 目的の男はすでに死んでいた。血の気の引いた彼の首には縄の痕と思しき痣が巻き付いていた。
「なぜあんたらのような輩は」
 男は布を整えてから煙草に火を点けた。マッチの火が彼の顔を赤々と照らし、人生という苦渋によって刻まれた皺をくっきりと浮き立たせた。「わしらみたいな哀れな鼠をそっとしておいてはくれんのかね」
「俺達以外に誰か来たのか?」
 男はペインから眼を逸らして深々と煙を吐く。
「さあもう帰ってくれ。わしは葬儀の準備をしなきゃならん」


 徒労に終わった。
 私たちは煮込み肉のにおいが漂う、広い食堂の片隅に向かい合って腰を下ろした。なぜこの街はどこもかしこもこう薄暗いのか。少女と呼んでもおかしくない若い女給がせわしない様子で水を持ってきた。彼女は「決まったら呼んで下さいね」と言ってすぐに他の客のところへ行った。水を一口飲んだが、泥の味はしなかった。私は安堵した。それにしても品書きには肉料理ばかりが並んでいる。想像もつかないような名前の料理もある。おそらく異国のものだろう。
「決まった?」
 私はペインに訊いた。特に食べたいものがなかったので、彼と同じものを頼むつもりだった。だが彼も眉根を寄せて「食えそうなものがない」と言った。結局私が適当に見繕って注文した。
「一体誰が来たのかしら?」
 あの部屋には塵一つほどの気配も残されていなかった。相当の手練者だと考えられる。それにここまで嗅ぎ付けられる情報網の持ち主だ。もしかしたら。
「……わからん」
 彼は視線をテーブルの上で組んでいた両手に落とし、強く握りしめた。その姿は己の甘い期待を必死で打ち消そうとしているように見えた。
「マジなんなんだよこの陰気くせー街は!」
 突然背後から怒声が響いてきた。
 誰なのかは見ずとも分かり切っていた。ペインは私を通り越して店の入口の方を一心に見つめていた。この人がこんな顔をするなんて知らなかった。私も後ろを見ようと身体を捩ると、久々の顔ぶれがそこにあった。他の客は誰も彼らを見ていなかった。客たちは自分たちに災いが降りかからないようにやり過ごしているというより、余所者には興味がないといった風に見える。飛段はいまだに喚いていた。先に角都が私たちに気づいた。彼は飛段の肩を叩いて私たちの方に促した。
「ハァ? なんだよ?」
 飛段はようやく私たちに気づいた。正確には、ペインに気づいた。そして立ち尽くした。


 角都と私は雑踏にいた。私は飛段に席を譲り、角都を連れて店を出た。四人で食事をするなど考えられなかった。
 ペインと飛段が一緒にいると、私は必然的にあの子を思い出す。あの子はとてもいい子だ。私はあの子が泣いていませんようにと祈る。私はあの子が好きだ。でも飛段のことも嫌いにはなれない。
「じゃあ、また後でね」
 私は空腹だったが、彼と二人で食べるつもりもなかった。彼だってそうだろう。案の定角都は「ああ」と言った。私たちは各々腹を満たすために別れた。

 私はさっきの所よりももっと小さな店に入った。一人客が多く、皆酒を飲んでいた。私も場に合わせて飲むことにした。それと肴になりそうなものを選んだ。カウンター席の端に座って飲んでいると、思いのほか早く酔いが回った。悪い気分ではなかった。見知らぬ男が私の隣に座った。
「見ない顔だね」
 男は笑顔で言った。
 私と男は歩道を歩いていた。男に別の店で飲みなおそうと誘われて、私は承諾した。三十頃の軽薄そうな男で、今の私はそこが気に入った。男について行くと、いっそう暗い、人気のない路地裏に出た。人々の喧騒は遠くなっていた。男は私をごつごつした壁に追い詰めた。顎に触れた男の指には煙草の臭いが染み付いていた。水の流れる音がやけに耳障りだった。男は私に顔を近づけてきた。私は逃げる気などなかった。私は眼を閉じた。
「火遊びは良くない」
 聞き慣れた声がした。すでに男の身体は私から離れていた。眼を開けると角都が男の肩を掴んでいた。男は角都を見て怖気づいた。男は私に震える声で短く罵声を浴びせて、角都の手を振り払いそそくさと逃げていった。私はすっかり酔いが冷めていた。
 角都は私を何ともいえない眼で見ていた。私に幻滅しているようにも見えた。私は皮肉を言ってやりたかったが、何も思いつかなかった。それで彼の口布に指をかけて引き剥がした。そして彼の首に腕をまわし、曝け出された唇に自分の唇を押し付けた。
 彼の唇は乾いていて、意外なことに――自分が意外だと思ったことも意外であったが――柔らかかった。彼は私を突き放しはしなかったが、受け入れもしなかった。何の反応もなかった。大きな人形に抱きついているみたいだった。そのわりに唇は生々しかったけれど。私は息が苦しくなって唇を離した。間抜けなことに、息を止めていたのだ。
 角都はまた私を見つめた。今度は何を感じているのか分からなかった。彼は眉間にかすかに皺を寄せて、少し言いにくそうに「女は駄目なんだ」と言った。
 私は角都を見つめ返した。私はこれまでに彼の素顔を見たことは何度もあった。けれども、ほんとうに見たのはこれが初めてなのだと思った。彼の顔は厳しかった。歳月が彼に刻み付けた厳しさだった。彼は終わりなき叙事詩そのものだ。私など、そのうちのほんの短い一章でしか、いや、一節でしかないだろう。
「……外へ出よう」
 沈黙に耐えかねたのか、角都が切り出した。


「オレ達は昨日着いたんだ」と角都は言った。「まさか首を吊るとは思わなかった」
 雑草すら生えていない土の上を歩いた。ここにはペインの言うとおり何も無い。ここには誰もいない。全てが死んでいる。何も生み出さない土壌。誰にも必要とされない土地。何の価値もなく捨てられてしまった。
 波止場に出た。そこから世界は大きく切り開けていた。荒涼とした世界だったが。それでもここよりはずっとましだろう。
 私は「船に乗りたい」と言った。


「五時だと言ったはずだよ」眠たそうに眼を擦って船頭が言う。「まだ出せないね」
「少しだけでいいんです」と私は言った。「ほんの少しだけ、近くを回っていただければ」
 船頭は困ったように顔をしかめて海を見渡した。「また霧が出てきた」
「これで出してやってくれ」
 私の後ろから角都が船頭に金を差し出した。


 私は甲板にいた。角都は船室にいた。モーター音を響かせて船は出航した。
 あの頃、私たちは三人だった。
 男の子が二人で、私は女の子だった。男の子たちは優しく頼もしかった。にもかかわらず、私はいつも怖かった。いつか彼らが私を置き去りにするかもしれないと考えてしまって、とても怖かったのだ。
 船はゆっくりと大きく湾曲した。別に嬉しくも楽しくもなかった。どこにいても結局は同じことなのだ。生きている限り。
 船頭の言うとおり霧が深くなってきた。気温が下がり、風は冷たさを増していく。
 あっという間に濃霧が私たちを包み、船は止まった。水夫の叫ぶ声がした。「お客さん、船はしばらく動けません。風に気をつけて下さい」
 ほとんど何も見えなくなった。足元すらあやふやだった。私は泳げるけれど、もう力を抜いてもいいかもしれない。
 甲板が軋む音がした。大きな影が私の隣に立った。私は肩を抱かれた。見慣れた指輪が目の端に入った。彼は黙っていた。
 私たちは突っ立っていた。霧と風の中を。虚しく身を寄せ合って。私たちは世界から隔絶されていた。私たちは行き場がなかった。私たちは受け入れられなかった。私たちはそれぞれに哀しく、それぞれにひとりぼっちだった。たぶん、これからも。私は彼の胸に頬を寄せた。