ハキダメ

ダメ人間の妄想の掃き溜め

梅雨入り前(ss)



中途半端に古ぼけた湯治宿の部屋で、角都は鼻を鳴らして書類を机に投げ出す。こんな額は払えんし払う気もない、半額にまけろ。そりゃねーぜこれは相場だ無茶言うな。引かずに言い返す情報屋の男はストレスを感じているのか頭を盛んに掻く。相手の声から本気をはかりつつ、いつもながらの値切り交渉をする角都は、ふと視線を感じて窓の外を見る。視線、というよりも他者の顔がこちらを向いているのが気になったのである。角都らが滞在している宿の向かいの棟の窓から数人の顔が見える。見ればその上下の階の者もこちらに顔を向けている。指をさす者もいる。厳密には角都を見ているわけではないが、どうにも落ち着かない。眉をひそめて苛立ちをあらわす角都を情報屋はなだめようとする。珍しい野鳥かなんかいるんじゃないか、このへんは田舎だからな。不毛な料金交渉で重くなった雰囲気を変えるためだろう、情報屋は窓を大きく開いて太った身を乗り出し、下を眺めたが、すぐにぎこちなく振り向くと渋る口調で尋ねる。角都よ、アンタの連れの若いのは今どこにいる?てかアレそうじゃないか?悪い予感に追われるように窓辺に寄った角都は、温泉棟の屋上の物干し場でごろ寝をしている相棒の丸裸を認め、生涯で多分初めてのめまいを覚える。久しぶりに明るく晴れた空の下、あっけらかんと白い相棒の体のまわりには数匹の野良猫が集まっており、妙にほのぼのしているが、不道徳であることは間違いない。ずん、と殺気を立ちのぼらせる角都を情報屋が必死になだめる。角都よせよそんなもん垂れ流したら誰かがおれらに気づくかもしれねえだろ、面倒ごとは御免だぜ、頼むからよせって。角都を窓辺から押しやった情報屋は、おーい、と件の物干し場に声をかける。そこの兄ちゃん、あんたの相棒が外に肉食いに行くって言ってるぜ、あんたも行くんなら用意した方がいいんじゃねえか。見も知らない男がなぜ自分のことを知っているのかという根源的な疑問を飛び越えて「肉」という単語に反応した飛段は、えっマジで、と飛び起き、コンクリートの床に敷いていた宿のぺらい浴衣を引っかけると帯もしめないそれをふわふわとなびかせて屋内へと消えた。露出狂めいた姿が見えなくなると、情報屋は角都に顎をしゃくる。行けよ、部屋にあんたがいないとアイツまた表に出るぞ。角都は頭をせわしなく掻く情報屋を見つめる。言いたいこと、すべきことはたくさんあるが、とりあえず今はすべてを棚上げにするしかなさそうだ。大事な書類をあたりに取り散らかしたままドアに手を掛け、それでも振り返る角都に、窓辺に立つ情報屋は煙たそうに片手を振る。いいから早く行けって、話は後だ。その言葉に甘えて角都は足早に部屋を出て行く。あの交渉はそもそもふっかけてあったわけだし多少は譲ってやってもいい、などと柄にもなく考えながら。角都は貸し借りには厳格なのだ。借りは返すし貸しは必ず取り立てる。たとえ相手が相棒であっても。